
船から人が海に落ちる「落水事故(マン・オーバーボード)」は、今なお生還が難しい事故とされている。クルーズ業界団体CLIA(国際クルーズライン協会)の報告書によれば、2009年から2019年に発生した落水事故では、落水者の70%以上が死亡している。大型船は急に止まれず、救助艇を降ろして捜索を始める頃には、落水者は船から遠く離れてしまう。低体温と疲労により、生存可能時間は刻一刻と削られていく。
この「時間との戦い」に空から挑むのが、DTU(デンマーク工科大学)の研究チームだ。2026年6月にDTUが発表した記事によると、博士課程のディモステニス・アンゲリス氏らは、落水確認と同時に航行中の船から自動で発進し、落水者を探し出してライフジャケットを届けるドローンの試作機を開発している。これは同大学のOSARプロジェクトの一環で、エヴァンゲロス・ブーカス准教授が率いる研究の柱であり、アンゲリス氏の博士課程はオリエンツ財団とデンマーク海事基金の支援を受けている。
救助用ドローン自体は、すでに海水浴場での浮環投下などで実用例があるが、それらの多くは人間のパイロットが操縦するものだ。DTUの取り組みが一線を画すのは、発進から捜索、および帰還までを完全自律で行う点にある。
広い海に漂う人間を見つけるのは、想像以上に難しい。波しぶきや光の反射にまぎれ、夜間や悪天候では肉眼での発見はほぼ望めない。そこでこのドローンはRGB(可視光)・赤外線・サーモグラフィの3種類のカメラを搭載し、互いの弱点を補い合うことで、夜間でも体温を頼りに水中の人を識別できるようにした。完成版では、GPS信号を発信する自動膨張式ライフジャケットを搭載する計画だ。アンゲリス氏は「目的は2つ。落水者の生存時間を延ばすことと、救命艇を正確に誘導することだ」と語る。
効果は数字が物語る。米国のLJA(ライフジャケット協会)が発表している資料によれば、水温4~10℃の海では生存時間は通常30~60分だが、ライフジャケットがあれば最大3時間まで延びる。救助隊が到着するまでの「時間を買う」装置なのだ。
注目すべきは捜索アルゴリズムである。従来の救助では、救助艇が漂流予測ルートに沿って三角形のパターンで海面を捜索するが、視点が低く、遠くの人影を見つけにくい。DTUのドローンは複数の探索手法を組み合わせ、船から得る風や海流のリアルタイムデータと経過時間を加味して漂流位置を推定し、同じ海域を二度捜索しない効率的なルートを自律的に選ぶ。この新しい位置推定により、テストでは要救助者の80%以上を発見できたという。チームは以前から落水者救助ドローンの研究を進めており、その構想は2020年のIEEE論文でも発表されている。
「着艦3秒」を実現する新技術
意外な技術課題が「帰還」だ。揺れる船の甲板に着艦するには、従来は甲板の傾きを予測する計算のためにホバリングで最大5分待つ必要があり、30分しかない飛行時間を大きく食ってしまう。チームはカメラ映像だけを頼りに約3秒で着艦する手法を開発中で、強化学習を使ったこの技術はarXiv公開の論文として発表されている。30分の飛行時間のうち5分を着艦に費やすのか、3秒で済ませるのか―その差は、そのまま捜索に使える時間と範囲の差になる。
機体は重量24.8キロ、直径2.4メートルで、さらに20キロの貨物を搭載可能となっている。飛行時間は30分、天候や積載量にもよるが最大1平方キロメートルを捜索できる。すでに陸上に加え、デンマークとスウェーデンの間に広がるカテガット海峡で、発熱ベストを着せた等身大マネキンを「落水者」に見立てた実海域試験も行われており、得られたデータは機材の調整と捜索精度の検証に使われている。アンゲリス氏は機体そのものをゼロから設計・製作しており、ハードウェアとアルゴリズムを一体で開発できる体制が、この種の特殊用途ドローンの強みになっている。
ドローン業界の視点から見て興味深いのは、その市場参入戦略だ。アンゲリス氏が描く最終像は「人を乗せるすべての船への救助ドローン標準装備」である。クルーズ船、フェリー、洋上風力の作業船など対象は幅広く、安全装備として標準化されれば相応の市場規模が見込める。しかし海事分野は規制が厳しく、新製品の導入には膨大な実証と認証の積み重ねが要る。そこで同氏は当面、沿岸警備隊が落水者にいち早くライフジャケットを届ける用途での採用という、現実的な経路を想定している。まず公的機関で実績を積み、データで有効性を証明してから民間に広げる――規制産業における段階的な市場開拓の定石であり、日本のドローン物流や設備点検ビジネスにも通じる教訓だろう。
アンゲリス氏はDTU発表記事の中で、「数十分ではなく数分で落水者に到達できれば、生存の可能性は根本から変わる」と言う。捜索・投下・誘導・帰還までを自律でこなす機体は、ドローンが「空飛ぶカメラ」から「命を救うインフラ」へ進化しつつあることを示している。海に囲まれ、海運・水産・洋上風力を抱える日本にとっても、決して遠い話ではないはずだ。