ドローン・ロボティクス業界にいち早く参入して活躍するプレイヤーの方々のキャリアに焦点を当て、その人となりや価値観などを紹介する連載コラム[空150mまでのキャリア~ロボティクスの先人達に訊く]第19回は、エアロネクストの海外事業担当としてモンゴルなどの新興国を開拓中の川ノ上和文氏にインタビューした。
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川ノ上氏は、2015年に日本から台湾へ拠点を移したのち、2016年からはアジアのシリコンバレーといわれた深圳をいち早く開拓したアーリーアダプターだ。20代に上海や北京で過ごしたバックグラウンドから、台湾時代には通訳なしで誰とでも話せる語学力とメンタリティを備えていたようだ。2018年頃にはドローン業界のみならず、「深圳といえば川ノ上さん」と知る人ぞ知る有識者になる。いつぞやモンゴルにも進出し、今後は中央・東南アジアやアフリカまで広く視野に入れるという。今回は川ノ上氏が10年の開拓で得た学びを紐解く。
「中国語を話せるスター人材になる」
まずは台湾へ渡る前の話を少し。もともと19歳で日本を飛び出した川ノ上氏は、北京では中国語教室やホームステイなどの日本人向け事業を展開する企業に在籍しており、実は筆者は2011年にここで川ノ上氏と出会った。当時の川ノ上氏はすでに流暢な中国語(標準語)で、中国人スタッフらと共に新たな教育コンテンツを開発するなど大活躍。2014年に同企業が日本法人を立ち上げる際には立ち上げメンバーとして参画していた。
しかし、1年足らずで台湾でのワーキングホリデーを決意する。というのも20代の締めくくりとして、実現したいことがあったのだ。
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川ノ上氏:英語を話し世界で活躍する日本人のロールモデルは、俳優やスポーツ選手などたくさんいるけど、中国語ではほぼいなかった。当時は中国語を話せる有名人といえば、卓球の福原愛ちゃんくらい。でも中国語は、世界最大の話者人口を有するグローバルランゲージだ。中国語を話せることでこんな道が開かれるのだ、ということを最初は中国語教室に通うビジネスパーソンに取材して伝えようとしたが、自らがもっと面白いストーリーを示したいという気持ちが湧いてきた。
ワーホリで行けるアジア圏の中で、中国語(標準語)を公用語として使えるのは台湾一択。調べていくと、ICTにもかなり力を入れていると分かり、関心は高まった。「中国語ができる前提で行ったら、何が起きるのか」。模索し体現するため、まずは1年間行ってみることに。「宝探し」10年の旅が始まった。

コストはとにかく抑えたい。過去、ワーホリのエクスチェンジプログラムを募集していたゲストハウス(ワーホリ開始前のリサーチ訪問時に写メしておいたらしい)に連絡すると、ちょうど1名空きがあるという。1年間ここに住み込んでベッドメイキング、フロント対応、日本語でのSNS更新などの運営業務を行う代わりに、宿と朝食の無償提供を受けた。
このほかの主な活動は、ビジネスフォーラム、エキスポなどのイベントに参加して現地で交流すること。台湾を代表するドローンの専門家に、ホームページの問合せフォームから連絡して、直接つながったのもこの頃だ。いまも彼とつながりがあるという。
川ノ上氏:旅行エキスポ、ITエキスポ、異業種交流会などにもどんどん顔を出して、台湾の人たちがどんなことを話しているのかを聞きまくった。その1つだったIT系の展示会で、当時まだほぼ無名だったイーハンやDJIを知って、ドローンの専門家の方からも話を聞くうち、ドローンって面白そうだなと思い、そこから深圳の開拓にもつながっていった。
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「ドローンはラジコンではない」。これが2015年当時から変わらぬ着眼点だ。「ドローンはフィジカルな世界で人間の手となり、目となり、口にもなる、人間の五感や身体機能を拡張させるツールとして、大きな可能性があると思った」と川ノ上氏はいう。

時をやや前後するが、日本ドローンレース協会(JDRA)の海外事業担当としても、一時期は精力的に活動したという。「中国語を話せるスター人材になる」と、自身で立てた旗印こそ道なき道を走り出す原動力になった。
川ノ上氏:JDRAでは各国組織との接点強化をミッションに動いていた。アメリカだけでもラスベガス、ロサンジェルス、ハワイといろいろ行ったし、タイ、ベトナム、インドネシア、台湾、マレーシア、シンガポールなどさまざまな国と地域で、何か現地で知りたいことがあったら連絡できる人を見つけておいた。この時の出会いから、今でも何年かごとに連絡を取り合う人も少なくない。実はモンゴルの開拓でも助けられた。
セレンディピティを感じまくった深圳時代
ワーホリ1年間が終わる2016年頃から、深圳でのリサーチも開始。深圳は「すごくエネルギーを感じる街」だったという。
当時、深圳は「世界の工場」として培った素地の上に、BAT(Baidu/バイドゥ、Alibaba/アリババ、Tencent/テンセント)の主要拠点や、米国留学から帰国したハイテクエリート人材が築くスタートアップエコシステムなど、新産業の集積が始まっていた。街中にはリープフロッグ現象が溢れており、中国政府が掲げる「一帯一路」計画にも接続する形で、香港・マカオ・広州・深圳を4大都市とする「大湾区計画」が発表されて、世界にも類を見ない複数都市が連結したベイエリア経済圏の構想が始まっていた。


ドローン業界の方にとって深圳は、DJIの本社があるハイテクシティという印象が強いかもしれないが、当時の川ノ上氏が感じたのは、深圳にはドローンだけじゃなく、VRや人工知能などあらゆる最新技術と人材が集積しているがゆえの、「とんでもないことが起こりそうな予感」だ。お金もない。家もない。人脈もないなか、まず行ったのは「雑談ヒアリング」だったという。
川ノ上氏:最初はカフェとかに座って仕事してますみたいな顔をして、ひたすら周りの会話に聞き耳を立てていた。するとやっぱり面白いことを話している。スタートアップの資金調達や、いつどんなイベントがあるとか、通訳を入れたら絶対に聞けない話ばかり。当時はノービザで入国できたので、2週間経ったら香港に行ってゼロリセットして、お茶してから深圳にまた戻るっていうビザランを3ヶ月くらいやっていた。

深圳ではイベントのほか、メーカーにもたくさん顔を出した。そこでは情報収集や人脈開拓だけではなく、例えば「日本のドローンの法規制の状況」など、川ノ上氏も日本語でリサーチした情報を整理して提供した。情報交換を通じて「ビジネスレベルの中国語を使ってドローン分野での日中の橋渡しができる稀有な日本人」として、新たなポジションが確立した。これは狙ってそうしたのだというが、稼ぐありきではなく「宝探し」だったことがポイントだ。
川ノ上氏:第一優先は、自分が面白いと感じるところを掘ること。それは絶対にぶらさなかった。そうすると、知り合った人からの紹介で面白い人に出会う、イベントでたまたま隣に座っていた人と仲良くなったら立場ある人だった、などいろんなセレンディピティが起きた。
日本のビジネス環境を話してほしいとだけ頼まれて気軽にサンダルで出かけたら、扉の向こうに中国企業役員が勢揃いしていたことや、日系大手企業からの依頼で幹部社員向けの講演に登壇すると、もう1人のゲストが広州総領事だったこともある。釣り合ってないけれど大丈夫だろうか、と当時は感じた(笑)。深圳では人的ネットワークを掘る楽しさと重要性を学んだし、そのやり方も試行錯誤するなかで身についた。


この頃はドローンだけでなく「深圳の重点産業と言われるものにはほぼ全てアンテナをはっていた」というから、相当な時間と労力を割いていたはずだが、収入面では苦戦が続いた。だからこそ、自身の状況を冷静かつ楽観的に捉えて宝探しを続けるタフなメンタリティと、目的を達するためには誰にどうアプローチすべきかを逆算して考える戦略性が養われた。
川ノ上氏:もちろん不安もあった。でも、中国語と英語ができれば仕事は何かしらあることは分かっていたので、自分が面白いと感じるほうへ、セレンディピティが起きそうなほうへ、行けるところまで行ってみようと考えた。水面ギリギリでも、途中でちょっと水に浸っても、飛べるところまで飛ぼうみたいな。リアル鳥人間コンテストですね(笑)。
1年後、気づけば風向きは変わっていた。「中国の先端産業をもっと日本に伝えたほうがいい」との想いも芽生え、自身のブランディング戦略としても、日本メディアへの寄稿を増やした。その結果、法人からの視察ツアー、現地調査、講演などの依頼が相次いだ。ドローン関連では、深圳で開催されるドローンエキスポに合わせた日本人向けツアーも、2018年までは年2回のペースで企画し実施した。

「何をやるか」よりも「誰とやるか」
苦い経験もあった。深圳ツアーや現地リサーチなどが軌道に乗り始めた頃、日本人3名で会社を設立したが、自身の未熟さにより約1年で行き詰まってしまったのだ。創業メンバーに納得してもらい1人代表になったという川ノ上氏。「経営者として、自分には足りないところがたくさんあった」と振り返りつつ、失敗を通じた学びは現在の指針にもなっていると明かす。
川ノ上氏:苦手なことを無理してやるのは、向いていないからやめようと覚悟できた。中国語も人的ネットワークもリサーチ力も、それ自体を現在の自分の提供価値として仕事を定めて動くのではなく、それらの資源がある前提で、どう拡げていけば自分らしい動き方ができるのか、どんな面白い世界が見えてくるのか、また評価してくれる仲間やお客さんを見つけられるのかを考えながら、事業を創造していく役割を担いたいのだと分かった。
そのためには、”何をやるか”は人が集まるフックとして大事だけれど、”誰とやるか”のほうが事業継続性的にも重要だと考えるようになった。
転機になったのは2019年、株式会社エアロネクストへの参画だ。中国深圳法人を立ち上げて、同社と契約を交わした川ノ上氏が、総経理(現地法人社長)に就任した。エアロネクストの田路代表取締役CEOが、深圳ツアーに参加したことがきっかけとなった。
川ノ上氏:ツアー最終日に参加者からコメントをもらうと、田路さんだけはツアーの感想ではなく、川ノ上さんが素晴らしいというばかりで、今でもそれはよく覚えている。そこで田路さんから”低空域の経済化”というビジョンを聞いて、自分と同じ方向性だったのも印象的だった。決め手は、ツアー後すぐに深圳のピッチの予選大会にチャレンジして、入賞という結果も出したこと。深圳に来て、一緒に何かしようと言ってくれた日本人や企業はたくさんいたが、多くが視察やリサーチ止まりだったのに対して、エアロネクストはスピード感を持って行動に移し、深圳でのピッチ決勝大会でも評価が高かった。

川ノ上氏のよさを殺さずにマネジメントするのは相当難しそうだが…と水を向けると、「これまで通り自由に動いて、エアロネクストの事業に上手くつながりそうだったら、適宜自分の考えで仕掛けてくれればいい」という”放し飼いスタイル”が効いたようだ。田路氏が一貫して標榜する「目的合理的であれ」というスタンスは、川ノ上氏が深圳で養ってきた戦略性と通じていた。
川ノ上氏:私が本来やりたかったことと、私の得意なところを見抜いたうえで、自由に動いていいと言ってくれたことは嬉しかった。そのマネジメントスタイルがいまも変わらないから、続けられているのだと思う。

しかし、米中対立の加速とコロナ禍で状況はまた一変する。この頃はまだ、エアロネクストが物流にフォーカスする前で、独自技術の最適用途を模索中だった。だからこそ深圳というフィールドを活用する意義も大きかったのだが、経済安全保障上の問題をはらむ中国にドローン分野でコミットし続けることは、スタートアップとしてはネガティブリスクのほうが大きいと判断して、川ノ上氏のほうから「中国と距離を置くこと」を提案したという。
川ノ上氏:中国側のコロナ入国規制で久しぶりに1年近く日本に滞在しているときに、しばらくは国際情勢的に中国と協業案件を進めることは難しいだろうと判断した。もちろんベンチマーク調査は従来通り続けていくが、コロナが明けたらすぐに動けるよう、インドネシア、ベトナム、インド、マレーシアなど他の国々も幅広く調べ始めた。深圳に戻ってからは、長期契約でMOU締結していた大学に、1年でプロジェクトを止める交渉をしなくてはならず、これは結構大変だったがよい経験にもなった。
モンゴルへの進出で、自身の強みも大きく転換
2021年にはエアロネクストも大きな変化を迎えた。小菅村に子会社のNEXT DELIVERYを設立してドローン物流にフォーカスすることが決まったのだ。経営方針が定まるまでは、川ノ上氏もやや動きづらさを感じていたというが、この停滞期間を活かしてオンラインスクールであるBBT(ビジネスブレイクスルー)大学にも復学。BBTでは、学び直しやキャリアの棚卸しを行う時間も確保し、ロールモデルも見つけたという。
川ノ上氏:五代友厚という、幕末から明治に活躍した実業家をロールモデルにしたいと考えるようになった。彼は薩摩藩出身で、薩英戦争で対峙したイギリス軍の技術力の高さから、イギリスとは戦うよりも懐に入り、学んだほうがいいと、捕虜になったのち得意な英語力を駆使し、交渉に臨んだ。
そしてイギリスと信頼関係を構築し、留学するためのコネクションを築いた。その後、薩摩スチューデントという視察団を率いて渡英し、産業革命の現場を体感した。帰国後は私の地元の大阪で、海外で得た知見をもとに大阪商工会議所や大阪証券取引所を設立して、大阪の近代経済を築いた人物。
彼からインスピレーションを受けて、語学や異文化理解力、折衷力や実行力を駆使し、人を起点に情報をつなぎ合わせ、構想を示すことで、産業を創出していきたいという、人生の理念が固まってきた。

深圳に戻ってからは、中国での事業整理をしつつ、次の開拓に向かった。JDRA時代も含めて培ってきた世界中に点在する人的ネットワークや、経済産業省所管の独立行政法人であるJETRO(日本貿易振興機構)の担当者とも壁打ちしながら、日本と中国以外の第三国でどこに進出するのがよいか調査を進めた。
ここで参考になったのもやはり深圳だったという。経済安全保障リスクが叫ばれている中でも、一部の欧米大手企業は深圳への進出を止めておらず、それどころかB2G(Government)のアプローチを着実に進めていたのだ。
川ノ上氏:彼らは戦略的に政府に対して都市型ソリューションを提案して座組を作った上で、現地にラボを設立して研究開発を進めるなど、医薬品、半導体、バッテリーなどの分野において、研究開発・製造拠点としての深圳はずっと動いていた。この動きは資本力がある大手企業でなければ難しいが、都市型ソリューションを現地の政府や企業と一緒に開発し実装していくという座組をうまく作れれば、スタートアップにも実行できると考えた。
ドローン物流においても、ジップラインが2017年からルワンダで血液輸送を、中国ではアントワークが都市部で病院をつなぐ取組を始めるなど、グローバルではユースケースが存在していたので、それをエアロネクストが別の国でやるならどこなのかという観点で独自に調査を進めた。
先行事例を参考にしながら、日本の外交政策や状況をとらまえたうえで、導き出したのがモンゴル。経済規模があまり大きくない都市のほうがインフラ未発達で行政との関係も構築しやすいこと、歴史的、文化的な関係性からくるネガティブな対日感情がほぼないこと、経済安全保障や競合優位性の観点から中国のドローン関連企業がまだ進出していない状況下で事業開発できること、2022年は日本とモンゴルの外交関係樹立50周年で外交的な後押しになるムーブメントが期待できること、日本からの直行便で5〜6時間でアクセスしやすく時差も1時間であることなどから、「日本での小菅村のような、SkyHub海外導入先第1号テストフィールドとしてモンゴルを位置付ける」という青写真を描いて社内にプレゼンした。
もちろん、すぐに事業収益性の見込めない海外事業は、スタートアップにとって「リスクでしかない」という側面もある。けれども、モンゴルであれば「リープフロッグを起こせる可能性が高い」「グローバル進出の突破口としては最適な選択」という経営判断のもと、2022年にJICA事業に採択されたのを皮切りに実証を開始。2024年夏には現地大手企業Newcomグループと協働して、50フライト以上のドローンによる血液輸送を実施して、このうち2名は実際の救命にもつながったという。

ちなみに、モンゴルを最初に意識したのは、2016年に自身が書いた本誌寄稿記事「モンゴルにおけるドローンの可能性」と、アフリカ・モンゴルでの事業経験を持つ日本人から聞いた「モンゴルで中古車市場が急拡大中」という情報がきっかけになったという。
「確かにモンゴル、ありかも」と思ってからは、数週間集中してリサーチしこの青写真をまとめ上げた。このとき、川ノ上氏の提供価値も大きく変化していた。自身の置かれた状況を冷静に分析して、むしろ意図的に、強みの転換を行ったのだ。
川ノ上氏:語学力やリサーチ力、人的ネットワークを最大限に活かして、さまざまなステークホルダーの最新情報を仕入れてきて、仮説まで立てられるという、”情報編集力”を自分自身のバリューにしていこうと考えていた。
モチベーションは「宝探し」
初モンゴルは2022年6月から8月の2ヶ月間、首都ウランバートルに滞在したが、この渡蒙前後の活動には、ひとつのテーマがあった。「現地でいろいろな人とのつながりを開拓していくことによって情報が集まってくる」という、セレンディピティがたて続いた深圳での一連の流れを、モンゴルで意図的に再現することを狙ったのだ。
川ノ上氏:深圳では日本からも関心が高いITやデジタルの領域で常に情報が入ってくる体制やチャンネルを作れたので、エアロネクストでの業務とは別に自分の会社のほうでも、例えば中国の貴陽というリープフロッグが起きつつある最貧地方都市の開拓で、取組を再現していた。エアロネクストのモンゴルにおいてもやり方は同じ。違うのは、直接的に中国語を使って中国のことを調べて中国の人とつながって中国でやるという一連の流れの最終パート、どこでやるかという場所だけだと考えた。
実際にモンゴルへ行く前には、モンゴルでB2Gの座組を作ることを念頭に、全体感を把握するためリサーチを実施。JICAモンゴルでスタートアップ支援をしている職員の紹介記事を見つけ、その方に白羽の矢を立て、「この方に会うためにはどうしたらいいか」を考えて、知人や知人からの紹介を辿り、ピンポイントでつながることに成功した。オンラインでのヒアリングではモンゴルの情報収集と同時に、モンゴル歴20年以上で日蒙のビジネス交流やマッチングを支援する専門家として両国からの信頼も厚い中村功氏を紹介されたという。
「中村功さんのような、現地の文化やビジネス慣習をよく深く理解されているベテランの方につないでいただくと、相手もちゃんと話を聞いてくれるので、とてもありがたかった」と川ノ上氏は振り返る。
渡蒙後は、”ドローンイノベーション 〜サンドボックス&リープフロッグ〜in モンゴル”という自身が構想したエアロネクストがモンゴルで目指したい姿をプレゼンし、意見を求める場を数多く持ったという。
ここで「プロ開拓者」として、さらなる成功体験を積むことになる。まず、片道切符で行き、1カ月以上生活をしてみる。機会損失を防ぐためだ。ホテルは最初の1週間だけ予約した。あとは現地情報をもとに、適宜調整していく。時間とコストを最大限コントロールし、いろいろな人に会ってリアルな情報を仕入れながら、「モンゴルのどの企業の誰とつながりを持つべきか」を見定めたという。”JICAや中村氏からの紹介”という立ち位置を事前にプロデュースできていなければ、こうはいかなかっただろう。
象徴的なのは、現在エアロネクストの現地協業パートナーであるNewcomグループとの出会いだ。まずはモンゴルにおいて、ドローン物流という新たなインフラや新産業の創出に乗り出す可能性がある企業をリストアップし、各社の企業文化や現地での評判など公開情報では得られない、けれども協業検討においては重要な項目を挙げて、会う人会う人にヒアリングしたという。その中で、モンゴルの基幹産業の創出を担ってきた大手財閥企業であるNewcomの存在を知ることになるが、まだこの時は何も接点がなくアンテナを張り巡らしていた。
川ノ上氏:最初に、日系通信大手のモビコムの日本人役員の方を前述のJICAモンゴルでスタートアップ支援をしている方から紹介してもらった。そこで事業紹介をさせてもらいフィードバックをいただいた。
その後、資本関係もある両社の定例会の雑談で日本のドローンスタートアップであるエアロネクストと面会したことを、幸運にもモビコムの方からNewcomのCEOに伝えていただくことできた。数日後、Newcom CEOのバータルムンフ氏から会いたいと連絡を受けて、すぐに会いに行った。Newcomは、世代交代したばかりで、自国のためにという想いが強い。さまざまなインフラ事業への投資や日本企業との協業にも積極的で、とりわけ若い世代からの支持が高かった。
実際にバータルムンフ氏とお会いすると、2時間も確保してじっくり対話してくださったほか、ご自身が航空業界の経験があり空への思い入れが強いこともあって話はすごく盛り上がった。まだこちらに協業を前に進める予算がなかったため話は具体化しなかったが、CEOの人柄や価値観を確認でき、JICA事業への提案時点で現地パートナー候補として記載できたことは、採択にも少なからず影響したと思う。
JICA事業採択後にも、「お宝」となるネタに出会えた。JICAの紹介で訪問した国立病院で、「国立輸血センターがドローンを使って血液を輸送しようとしたニュースを、そういえば過去に見たことがある」という話が飛び出したのだ。その病院からの紹介で、国立輸血センターに赴き意見交換していくと、地下作業室に眠っている当時飛ばした機体を見せてくれることになった。その後お会いすることなったセンターの院長は「あれは失敗プロジェクトだから…」と、最初こそ恥ずかしそうにしていたものの、プロジェクトの立ち上げストーリーについて伺うとテンションは一変、熱い想いを語ってくれたという。
川ノ上氏:院長から、民航庁の許可を取っていないゲリラ飛行だったと聞いたときは驚いたが、ウランバートル市内は交通渋滞が本当にひどくて救急車での血液輸送に直接的な影響が出ており、そのために人が亡くなる事態も発生している、人命救助のため何とかしたいと聞いた。
日本の感覚からすると、国立の医療機関が飛行許可なしで飛ばすなんてと思うかもしれないが、院長からしたら、人命救助のために必要な社会的に意義があることに挑戦することの何が悪いのかという感じだった。安全意識の相違は協業において埋めるべきだが、現地におけるドローン物流の焦点が定まった。お宝となるユースケースを見つけたと思った。


「人を起点に産業を創る」モンゴルのサイドストーリー
最後に、モンゴル開拓に不可欠だったサイドストーリーがある。通訳のラブジャー・ソドエルデネ氏との出会いだ。ラブジャー氏は10代から20代にかけて日本での留学・就労経験がある事業家で、現在は川ノ上氏が個人出資する形でウランバートル市内に新しい食体験とコミュニティ創出の拠点となる飲食店「MindFoodStudio」を構えて経営もしている。
もともと、モンゴル開拓で自身の強みである中国語を使えないことは分かっていた。モンゴル語は全く分からず、モンゴル人の知り合いは東京に1人いるだけ。エアロネクストがモンゴルで成功するためには、信頼できる人が現地に必要だった。単なる通訳として関わるのではなく、損得勘定で動くのでもなく、情報と人をつなぐハブとしても機能し、常に川ノ上氏の片腕として動いてくれる人物を現地に置くことこそ、事業成功の要になるからだ。
だからこそ、身銭を切って投資した。「人生を通じて、人と人のつながりをさらに育てていきたい」という意思表示として。
川ノ上氏:ラブちゃん(ラブジャー氏のこと)の仕事ぶりは非常に素晴らしかった。通訳はもちろん、モンゴル人の視点からの助言を求めた業務についても惜しみなく協力してくれ、彼のおかげで理解が深まった。エアロネクストの事業では、”モンゴルのためになる”という想いと誇りを持って、主体的に動いてくれている。Newcomの担当者と意思疎通が難しかった時にも、自分はあまりタバコを吸わないのに喫煙所まで行って、本音をそれとなく聞き出してくれるなど、誰からも見えないところでの細やかな配慮に非常に助けられている。
飲みの席では、生い立ちも含めていろんな話を聞いた。苦労してきたからこそ成功してやるという気概や馬力がある人だと分かり、信頼に値する人物だと思った。彼が飲食店をやりたいと言ったとき、私自身も食分野には関心があったので出資し、ドローン物流と食という2つの新産業創出に向けて一緒に取り組んでいる。最近では輸血センターの院長先生やNewcom側の関係者からの信頼も厚い。本当に頼りになる存在だ」

これから川ノ上氏は、まずはエアロネクストのモンゴルでの事業を通じて新産業の創出を目指し、将来的にはこの事例を中央アジアなどの第三国へ展開していくことも見据えたいと話す。
川ノ上氏:自分が新結合のハブとなり、海外を中心にゼロイチの機会を創出することが、今最も楽しい。そのために自らの役割を「エクスプローラー」「アグリゲーター」「プロデューサー」「インベスター」の4つに定めて活動している。
エアロネクストの海外担当のほか、ラブちゃんなど信頼できる人への出資、BBT大学同窓会会長、波長の会(川ノ上氏が人生を通じて出会ってきた方々を横で繋ぐ会)など、「人を起点に情報を編集し、新産業を創出すること」を人生のテーマにしている。なぜなら、自分でコントロールできないことも含め、誰かとともに試行錯誤しながら形にしていくこと自体が、何よりも面白いと思ったからだ。
私ひとりでは何もできない。多くの人を巻き込むことが重要だし、巻き込んだ結果として面白さや共感が広がってそれが新たな原動力になることが楽しい。また、どんなに能力があり、事業を作ったとしても、すべてを自分で管理することはできないのだから、いずれは誰かに託すことになる。それは日本人かもしれないし、外国人かもしれないけれど、信頼が崩れれば、どれだけ事業を作っても、すべて失う可能性がある。だからこそ、何をやるかは手段に過ぎず、大切なのは「誰とやるか」だと考えている。
