今回は、航空写真家として約20年以上の経歴を持ち、"日本一の空撮パイロット"まで昇りつめた野口克也氏の素顔に迫った。
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野口氏は、ヘリコプターのパイロットを志した20代、航空写真家としての起業と挫折を味わった30代を経て、「空から日本を見てみよう」をはじめとするテレビ番組空撮などで、いち早く産業用ドローンを開発・活用してきたアーリー中のアーリーアダプターだ。
2015年3月、エンルートの空撮専門事業部としてスタートしたヘキサメディア事業部より独立し、株式会社ヘキサメディアを設立して、環境省の小笠原諸島西之島の学術調査におけるドローン運用では、映像空撮のみならず、たとえば火山灰の採取では吸引機の提案から開発、運用まで手がけている。
野口氏は、いかにして"巨匠"となったのだろうか。「ああはなれない」と思う人も多いかもしれないが、ロールモデルとしてというより、「よいな」と思える一部分を自身に取り入れるモザイクモデルとして野口氏を見ると、「ドローン業界で、より自分らしく活躍する」ための様々なヒントを得ることができるのではないかと思う。
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自分という木の「幹」に気づく
小学校の頃からパイロットになりたいと思っていたという野口氏。東京都狛江市の生家が、飛行場に近かった影響もあったのかもしれない。高校では写真部の部長をした。進路は、「カメラマンにもなりたいけど、まずはパイロットを目指してみよう」と考えた。
ヘリコプターパイロットのライセンス取得には、結構な費用がかかる。そのため約3年かけて、トラック運転手とバイク便で稼ぎ600万円作った。しかし、ライセンスを取得できた1995年は、バブルが弾けた直後。パイロット採用も控えられている、厳しい状況だったという。
そんな模索のなか、プライベートでは深い心の傷を負う出来事もあった。離婚を経験したのだ。最愛の息子とも離ればなれ。精神的にズタズタになり、回復するまでにその後10年かかったというが、このどん底の経験がきっかけとなって、自分という木の「幹」を改めて確信できた。「生きる力」とは、こういうことなのかもしれない。
2007年には、現役ヘリパイロットとして独立した男性と一緒に起業。ヘリテックエアロサービスを立ち上げて、ヘリコプターに乗って空撮を手がける航空写真家の道を本格的に歩み始めた。
仕方ない、ドローンを飛ばそう
テレビ東京系地上波「空から日本を見てみよう」では、2009年から2011年夏の放送終了まで撮影を担当した。ヘリコプターによる空撮映像をメインに用いたこの番組は、毎週放映された。「美しい構図を連続的に作る」という点で、かなりの経験値になったようだ。東京都上空の空撮では、細い路地や目印まで把握したバイク便時代も役立ったという。
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しかし東日本大震災の影響で、コンスタントに依頼があったレギュラー番組が次々と打ち切りに。「空から日本を見てみよう」も例外ではなかった。さらに同時期、追い討ちをかける"Xデー"が訪れてしまった。自分が創業した会社からあっさり首を切られてしまったのだ。
けれども、突然の解任劇とドローン登場の時期が重なっていたことは運命的だ。2011年から2012年は、マルチコプター型のドローンが出始めた頃。もともと、ヘリに追加してドローンも活用できないかと目をつけていたという野口氏は、「仕方ない、ドローンを飛ばそう」と思ったという。
意外にも、ドローンを始めた理由はネガティブだが、「日本一の航空写真家になる」という夢が支えになった。そして夢を叶えるための、現実的な「逆算」で実績を積んだ。
「欲しいものは自ら作り出す」
とはいえ、当時のドローンは、ほとんど暴れ馬。「本当に怖かった」そうだ。2012年から2017年のBS Japan「空から日本を見てみようPlus」でも、当初はヘリからの空撮が基本だった。ヘリは飛ばすだけで1分4000円。短時間で最大限の撮れ高を要求される現場において、メインカメラマンをずっと担当しながら、2012年から2014年にかけて、エンルートで機体開発にも励んだという。
このように、「欲しいものは自ら作り出す」というスタイルは、ドローンに関わり始めた頃からの筋金入りのようだ。このDIY精神があるからこそ、2017年~18年より空撮がコモディティ化してからも、「自分じゃないといけないような、技量や知識が必要な分野の仕事に、フォーカスし続ける」ことができているのではないだろうか。
「発想の転換」で困っている人を助けたい
その筆頭格が、環境省の小笠原諸島西之島の学術調査でのドローン運用だ。西之島は、小笠原諸島にある拡大を続けている火山島で、東京の南約1000km、父島の西約130kmに位置する。「大陸誕生の鍵を握る島」として大変注目を集めている。
野口氏は、調査初回の2015年にエンルートで参加して以来、2017年から2021年は毎年随行。観測、測量、テレビ番組映像など、さまざまな主体からの空撮依頼を一手に引き受けている。離着陸は、ほぼ船からだ。制限区域が設けられているため、長い時では4km離れたところから、インターネットも電話回線もなく助けてくれる人が誰もいないなか、乗船人数制限のため空撮担当一人で安定飛行でき、2週間で何十回も飛ばすという能力が求められるという。
火口に向けてカメラを設置して、半年後に回収してくるといった要望もある。影を見ながら向きを調整するなど、物凄い操縦テクニックが求められるという。また、「固まったばかりの溶岩を削って持ち帰りたい」「新しく降り積もった火山灰を採取したい」などの作業的な要望にも、汎用機をカスタマイズして応え続けている。ドローンから電源をオンにした掃除機を吊り下げて飛行し、その先端に釘を付けておいて、岩肌を削りながら吸い込み砂の採取に成功したこともある。(このあたりの工夫を詳しく聞きたい方は、ぜひ野口氏に現地の映像を見せてもらっていただきたい。)
野口氏は、発想の転換で欲しいものは自ら作り出し、期待を超える成果を出し続けることで、「他の人では成立しない」「自分じゃないとできない」オンリーワンの仕事を創出しているのだ。
「航空写真家」という幹に、過去のすべて掛け合わせた
これでは野口氏との差は開くばかりではないか、という気もしてくる。野口氏のような卓越したドローンパイロットになるためには、どうしたらいいのだろうか。
野口氏は、「初めて西之島に行ったときは、みんなと同じくらいのレベルだったと思いますよ」と話し、ヘリコプターのパイロットと空撮カメラマンの実績だけではなく、幼い頃から青年期、社会人になってからの体験すべてが生かされて「いま」があるということを話した。
昔はいじめられっ子だったけど、合気道を習って強くなったこと。高校でのカメラ部や電子工作部での活動や、廃棄されたバイクを安くもらい受けて修理して乗ったこと。ベルリンの壁が崩壊したとき、シベリア鉄道に乗って、ポーランド語もドイツ語もロシア語もできないのに、東欧を3ヶ月放浪したこと。
モニター越しに空撮映像を撮り続けてきたこと。はじめは全くわからなかったフォトグラメトリや座標の十進法を、仕事での必要性にかられて勉強したこと。ヘリ空撮という、限られた時間の中で成果を追求し続けたこと。
DJIの機体を高度1000mまで飛行させるために、「センサーを誤魔化せばいい」と思いつき、アクリルケースに布団圧縮袋のバルブを取り付けて機体を入れて減圧しようとしたこと。うまくいかずDJIに相談すると、すぐにカスタムファームウェアをインストールしてもらえたこと。それなのに、南硫黄島へ行く途中のテストフライトで、うっかりファームウェアのアップデートをしてしまったこと…。(結局、急いでKさんにお願いして、事なきを得たという。)
ちなみに、野口氏は西之島から東京へ帰る船に揺られる2日間で、いつも空撮映像を編集して、船上での打上げ時にムービー鑑賞会を開くそうだ。「そういう映像が欲しかったというニーズも聞けるし、次の仕事にもつながる」と言うが、根底にあるのは「好きなことをやって、人に喜ばれるのが嬉しい」なのかな。だからこそ、難しい相談に応えたくなるし、経験値もどんどん上がっていくのかなと。野口氏の笑顔を見てそう思った。
これからの夢は"地球防衛軍"
2020年からは、西之島などの自然科学系の学術調査のほか、消防庁の研修や気象庁の火山観測など、人のためになる公共的な意味を持つ仕事に注力しているという野口氏。2021年4月には、一般社団法人Japan Innovation Challengeが開始した、ドローンによる夜間山岳捜索支援の「NIGHT HAWKS」で、理事に就任してシステムやサービスの構築にも尽力している。
そこには、「防災ヘリや消防ヘリなど、リアルに人を助けることができる、ヘリコプターのパイロットになりたい」という、もともとの願いに立ち返りつつある姿が見てとれる。"日本一の空撮パイロット"という目標を達成したと思えるからこそ、どこか安心して子ども時代に抱いた夢や憧れへ、原点回帰できるのかもしれない。
これからの野口氏が、どのような部隊を作っていくのか、また後進の育成をどのように手がけていくのか、数年後にまた話を聞いてみたい。そういえば、野口氏のFacebookでたまに「船に同乗する人」の募集を見かける。文面にそうとは書かれていないが、あれは後進の育成を視野に入れているのかもしれない。キャリアは誰かにお願いされて、ましてや会社から指示されて構築するものではなく、自ら選び歩むからこそ開かれて行くものなのだ。